異分子の運命 - グローリア国際知財事務所

異分子の運命

 

これまでの自分の半生を振り返ると、他の人たちの集団(コミュニティー)に馴染むことが常に苦手で、「ぞんざい」に扱われることが多かった。

それは物心が付くよりももっと前の、幼少の頃から変わらない。

例えば、幼稚園児だった頃は、いつも一人でトライアングルに上の方でぼーっとしているか、たまに他の園児と遊ぶことが稀にあっても、劇ごっこで「脇役中の脇役」を仰せつかる身分だった。不満そうにしていると、他の園児に、その脇役がいかに重要かを話して聞かされた。

あるいは、「誰よりも楽しそうに、一人でお絵描きを楽しめる子」だとして、賞をもらって、記念にスケッチブックを貰ったりもした。

小学校へ上がっても、やはり集団へあまり溶け込めずにいたが、3~4年ぐらい経つと少しコツを掴めたのか、話し相手になってくれる友達が少しずつではあるが、増えてきた。

しかし、小学校5年生のときに、父の仕事の関係でカナダへ移り住むことが決まって、また振り出しに戻った。もともと「ぞんざい」に扱われる存在だったことに輪をかけて、言語が分からない国へ突然飛ばされて来たので、カナダのクラスメイト達には当然のごとく、異分子的に扱われた。

たまに話しかけてくれる子が居ても、東洋から来た言葉も喋れない女の子を、からかうようなことしか言わなかった。Jahsonという男の子は、ことある毎に、”I want to marry with Yoshiko”と言って、周りを沸かせた。

一度だけ、同じように異分子として扱われていた、Amberという女の子と、学校の芝生の隅の方で、ビー玉を見つめながら、寂しさを分かち合ったことがある。涙を溜めて、何故みんなが私と仲良くしてくれないのか、理由が分からないと言って、悲しい気持ちを暴露した。

私は言葉が不自由だったので、Amberにただただ共感する事しか出来なかったのが、当時は心残りだった。

中学1年生の春、日本へ帰国した。小学校高学年の、女子が独特のグループ形成を始める

頃に日本に居なかったことが、更に禍して、私はまるで、同級生達の輪へ入ることは出来なかった。

心優しい、かつ、おとなしめな性格の友達が一人か二人、話し相手になってくれる。それぐらいの交友関係しか、ほぼなかった。

唯一の楽しみは、毎日の放課後の学習塾通いだった。毎日授業がある訳ではないが、わざわざ電車で数駅向こうの塾へ来る日も来る日も通い、そこで少し先生に質問をしに行き、短い会話を楽しむ。それが私の癒しの時間だった。

そんな事しか楽しみが無かったため、塾での勉強には没頭できた。

そのおかげで、関西エリアでは有名な奈良県の私立、西大和学園高校に合格した。

中学卒業後の春、寒さが次第にましになり、梅の花が咲き始めた頃、家の黒い、指で回すダイアルが付いている電話に突然、西大和から電話が架かって来て、入学式で入学生代表の挨拶をするように、と告げられた。

そのことを、近所に住む由里子ちゃんという友達にだけ、打ち明けた。由里子ちゃんは、少なくとも表面上は誰に対しても心優しく接しようとする性格の子だったので、私の話し相手に、頻繁にではないが、たまになってくれる子だった。

一週間後、母が言うには、様々な近所の人から、「西大和に主席で合格したというのは本当か?」と聞かれた、と話していた。

もちろん、私にそのような事を直接尋ねてくる友達は、誰一人居なかった。

高校に入った後も、ずっと異分子扱いされる事には変わりなかった。何せ、入学式で、髪の毛がボサボサの女の子がたどたどしい、いかにも天然そうな声で挨拶をしていた、と言って、最初から要注意人物扱いをされた。

高校では、奥野君という男の子が、ことある度に、私の出身地を尋ねてきた。私が、「河内長野(かわちながの)。」と、いかにも田舎者のような、おっとりした様子で答えるのを、面白がって、何度も同じ質問を私へし、その度に私は笑い者にされた。

大学入学時、私はもちろん、「大学デビュー」を果たしたかった。もう「ぞんざい」な扱いをされることは勘弁して欲しかった。

だから、極力おしゃれに見える様にしようとしたり、天然パーマだった髪の毛にストレートパーマを当てたりして、普通っぽく見える様にするための、ありとあらゆる努力をした。

結果的には、それらは無駄になった。完全なる敗北だった。

大学の卒業間近になって、同級生の一人であったカワトー君が、私に「ハシヅメの父がフランス人という噂を聞いたけど、本当なの?」と聞いてきた。

無論、そんなはずはあるはずが無い。私の髪は真っ黒だし、肌は肌色だし、日本語と英語少ししか喋れない。

フランス語は、”Je suis mademoiselle.”とか、”ガトーショコラ”とか、”カフェラテ”とかしか、知らない。食べ物の仏語は、綴りすらろくに分からない。

しかし、カワトー君が言うには、学科中の噂になっていたとの事。

ついでに、トーイックが900点以上だと聞いたけど本当?とも聞いていた。それも、事実とは違った。当時は、まだ800点台だった。

それだけを聞いても、私が如何に、在学中、異分子扱いされて来たかが、改めて分かった。

大学卒業後に入所した特許事務所では、弁理士資格を有する女性弁理士が、私しか居なかった。それもあって、そこでもやはり、私は異分子的扱いをされていた。

たまに発明打合せに出ることがあると、事務スタッフが、コーヒー好きの私に、わざわざ淹れたての緑茶を、私のためだけに丁重に用意し、他の参加者全員には、コーヒーを用意したりして、ひたすら「ぞんざい」な扱いをされた。

異分子は、その後、何度も外部の空間へ放り出され、お局様に事務所を追い出された事もあったし、その他散々な目にあって、とうとう、「一人事務所開業」をすることになった。

異分子が辿り着くべくして辿り着いたのが、今の私のポジションだと思っている。

その後も、何度も繰り返し、他の空間へ放り出される経験をするかも知れない。私にも予測は出来ない。

しかし、人の人生なんて非常に短いので、そこらを浮遊してフワフワさ迷っているうちに、無事に完結するに決まっている。

だから、それでよいし、異分子的な人生をふわふわと楽しみ、地球を見聞して回らんとする。

結果的に、今はわりと、落ち着いて過ごせている。異分子の運命も、案外楽しいかもしれない。

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